アメリカのCMを見ていると、確かに購買意欲を刺激される。けれど同時に、どこか「食あたり」を起こしそうな気分にもなる。
たとえるなら、砂糖をこれでもかとまぶした甘ったるいお菓子。最初は魅力的に見えても、食べ終わる頃には胸やけしている。まさにアメリカのお菓子そのものだ。
あれは資本主義が行ききった末路なのだろう。濃すぎる味付けのほうが、多くの人の欲望を直撃するからだ。僕自身も「やりすぎだな」と思いつつ、ほしくもないものを少しほしくなってしまう瞬間がある。
一方、東京で感じるのはそれとは違う種類の味だ。アメリカほど派手ではないが、似たような空虚さをまとっている。
大した価値のない商品が、ブランディングとマーケティングによって“ほしいもの”に仕立て上げられている。よく見れば中身は薄い。例えるなら、ただ塩を振っただけのサラダ。それなのに「これが最先端の料理です」と言わんばかりの顔で並んでいるのだ。
アメリカは砂糖まみれの毒菓子。東京は塩しか振っていないサラダ。形は違えど、どちらも資本主義の極まった味わいだ。
その味はどこか空虚で、東京の人々のさみしさを映し出しているようにも思える。
それでも僕は、気づけばその味に引き寄せられてしまう。ほしくないものを、つい「ほしい」と錯覚してしまうのだ。だからこそ怖い。
結局この街では、本質を見抜ける人間でないと、生きづらいのだと痛感する。
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