賛否あると思うけど、個人的にはブラック企業には「機能」があったと思っている。
多くの人間は――いや、自分自身も含めて――基本的に怠け者だ。
強制力がなければ、やるべきことなんてやらない。
だるいと思えばすぐサボるし、上司や会社、環境のせいにして「俺は悪くない」と言い訳する。
一方で、自ら律して成果を出せる優秀な人材は、
ブラック企業になんて入らない。
そもそもホワイト企業に優秀な人材として迎えられている。
じゃあ、そうじゃない人間――つまり大半の“普通の会社員”はどうするか。
そこで登場するのが、かつての「ブラック企業」だ。
ブラック企業は、**自律できない人間に外部の強制力を与えることで、ある意味“成長させていた”**のかもしれない。
たしかに、心を壊された人もいる。
逃げ遅れて、ボロボロになった人もいる。
でも一方で、あの環境で叩き直されたことで、社会人としての“筋肉”がついた人も、確かに存在する。
そして不思議なことに、彼らは後になって、あの地獄のような日々を**「今となっては良い経験だった」と懐かしむ**ような目をして語ったりする。
でも、もう“ブラック企業”は時代に合わなくなった。
今はパワハラだの労基だのSNS炎上だので、ブラック的な運営をしていればすぐに社会から抹消される時代だ。
つまり、ブラック企業が担っていた「強制的に人を育てる装置」はもうこの社会から消えつつある。
じゃあ、優秀でない人たちはどう育つのか?
正直、それが少し心配だ。
強制力がない中で、自分を律して成長できる人はほんのひと握り。
でも、それが「正しい社会」なのかもしれない。
無理やり叩き直すより、その人なりのペースでゆるやかに成長していく社会のほうが、本当は健全なのかもしれない。
ただ、あの時代のブラック企業には、間違いなく**“育成装置”としての役割**があった。
それだけは忘れてはいけない。
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